安岡正篤

明治維新を成し遂げた西郷南洲(隆盛)という人は、名誉だとか地位だとか権勢だとか、そういうものを誇るということが一つもなかった。淡々として、どうかすると、非常に虚無的であった。こういう人こそ真実の人、真人であります。地位だの名誉だの権力だの…

まず最初に漢民族が困ったのは、黄河の氾濫である。つまり黄河の水処理に非常に苦しんだ。だから漢民族の始まりは、ほとんど黄河の治水の記録と言うていい。それで、いろいろ水と戦ったのだが、何しろあの何千キロという河ですから、紆余曲折して、ある所に…

人間はやはり常に先を慮り、反省をし、警戒をする、ということが大事であります。それは真心があれば必ずそうなるべきで、他人ならなんとも思わぬことでも、親は常に子に対して心配するのと同じことであります。それが人間精神、人間愛というもので、世の中…

学問というものを分類しますと、これは見地によっていろいろにできますが、学問のもっとも根本的性質による一つの分類をしますと、これを三つに分けることができます。一つは「知識の学問」です。これは今日の学問を代表するものと言ってよいでしょう。しか…

我々が本当に学問修養をしてゆこうと思ったならば、ただ漫然とありきたりの生活をしているわけにはゆかぬ。日常の経験というものをできるだけ正してゆかなければならぬ。あるいは物の真実に到達してゆかなければならぬ。そこで初めて事の知識、本当の自覚と…

普通は淡と言えば淡い。淡いというのはどういうことかと言えば、味がない、薄味のことだなんて解釈しています。しかしそんな解釈ならば、「君子の交わりは淡・水の如し」などは、君子の交わりというものは、水のように味がないとなってしまう。君子の交わり…

おそらく誰知らぬ者もない「廃人の奇蹟」はヘレン・ケラー Helen A.Kellerでしょう。この人はナポレオンとともに、十九世紀の奇蹟と言われた婦人です。これは生まれると二歳の時、脳膜炎をやって、眼も耳もだめになってしまった。これは実に悲惨なことです。…

人々が己一人を無力なもの「ごまめの歯ぎしり」とは思わず、いかに自分の存在が些細なものであっても、それは普く人々---社会に連関していることを体認して、まず自ら善くし、また自己の周囲を善くし、荒涼たる世間の砂漠の一隅に緑のオアシスを作ることであ…

青年は純潔であってほしい。清新であってほしい。教養の高い、しかも謙虚な、国民の誰からも有望な者であってほしい。それでこそ次代への希望が持てる。現代に対する失望から救われることができる。 現代は、われわれが今日経験している科学・技術による産業…

ケインズは「今日は非常に功利的となって、人間内容もきわめて打算的な人が多いが、人間の価値は、その人間が何を為したかより、その人がいかにあるべきかのほうが重大である。金をもち、地位があり、いろいろな事業をやったなどという人は世の中にたくさん…

自分があるから敵がある。自分がなければ敵もない。敵というのはもともと対立するものの名である。それは丁度陰と陽、水と火といった類と同じである。およそ物の形あるものは必ずそれに対立するものがある。自分の心に形がなければ従って対立するものもない…

どれだけ才覚があっても、独学独習でやっておると、得てして自分免許になり勝ちで、思いの外の失敗をしでかすものであります。これは正道を知らぬからで、やはり人間はどうしても本筋の師匠について、本格の修行をしなければならない。

私どもに一番大切なことは、我々がいかに無力であるように見えても、自然の一物でさえも実に神秘な素質・能力を持ち、これを科学にかけると限りなき応用があるように、いわんや人間にはどんな素質があり才能があって、我々の学問・修養のいかんによっては、…

人間はみな職業を持っております。社会学者は職業に二つの意味を説いている。その一つは、それによって生活を営む手段とすることである。しかしこれは誰しも免れない条件ではあるけれども、それだけでは尊い意味はない。職業の大切なことは、それが生活の手…

兎角人間というものは、自分の素質、能力、立場、そういった実存というものを離れて、何かユートピアといったものを心に画いて、空虚な存在に自分を持って行ってしまう。そうすることが結局自分の生活を難しくしてしまうのであります。 だから自分の素質、及…

人間の美というものは、その人間の素、生地にある。性質から言えば素地・素質にある。これを磨き出すことが一番であります。いろいろのものをつけ加えるということではなくて、その人間の素質を生き生きと出すようにするのである。と言っても、持って生まれ…

大自然というものは、小さく限定された、いじましいものではなくて、悠々迫らず、常に限り無く創造変化して已まぬ。そして常に無限であります。所謂無であります。 そういう人格をつくり上げる。権力や名誉等に執着したり動かされたりすることなく、しかもそ…

人間というものは自分の立っておるその場に即して、そこから考え、そこから実践しなければ、結局それは所謂足が地を離れて抽象的になり、空論になってしまう。 処が自分の立場、自分の存在に自信のないもの程、その立場から遊離し易く空想し易い。本当に思索…

馬鹿殿様というのはこれは決して軽蔑した言葉ではなくて、賛美の言葉であります。大勢の家来を包容してその上に坐って、これを統率して行く。こういう事は余程馬鹿にならぬことにはつとまるものではない。馬鹿殿様にしてはじめて名君たり得るのであります。 …

中国や日本の歴史を見ますと、本当に人間味豊かなものがあります。人間性という点から考えると、現代社会はすべてに機械化し組織化して、人間味が希薄になり、非人間的になっています。この非人間的文明を真に人間味溢れるものにするためには、やっぱり本に…

青年は意気地のないことや、だらしのない身持ちを恥じて、熱烈な理想を持つこと。クラーク先生の名言を引用すれば「青年よ、大志を持て、Boys,be ambitious!」です。太陽の光に浴さなければ、物が育たないのと同じことで、人間の理想精神というものは、心の…

今日の近代文明社会においては、その一切の根底である「自らを修める」ということをすっかり棚上げしてしまっている。自分を修める、自分を磨く、自分を充実する、自分が自分を把握する、徹見するということを忘却し、ただ、外物、外界、他人ばかりを問題に…

貝原益軒が「煩を厭うは是れ人の大病である」とその随筆集『慎思録』に書いております。わずらわしいことを避けて、なるべく簡単にしようとするのは人間の大病であって、そのために人事に関する問題が駄目になり、事業が成功しません。どんなにわずらわしい…

すべて存在するものには理がある。理がなければ存在出来ない。すべて生きとし生けるものにはみな理がある。理がなければ生きられない。 だから一口に理というけれども、理にもいろいろあるわけです。 例えば、物が存在し、それによって動いておる。或は生き…

学問・道徳・宗教を修めるということは、人間がもっとも人間らしくなることである。人間がもっとも自然真実に練成されることで、人間を廃業することではない。人間を木や石にすることではない。なんでもないことであるが、そういうところに非常に誤解がある…

人間は現象的に煩雑になればなるほど、根源から遠ざかり、生命力が弱くなる。木でもそうですね。木というものはあまり枝葉が茂り過ぎたり花や実がつき過ぎたりすると、一時的には大そうさかんなように見えるけれども、実はそれによって木の生命力は非常に弱…

今時の人間は少しでも評判をよくしたい。持てはやされたい。人民大衆からもてはやされたいことばかり考えている。そういう時にその逆に、あたかも人間が太陽の光を受けて育ちながら、太陽に一向気がつかない。空気を吸って生きていながら、空気の有難味を思…

人の評する秀才だの、鈍才だの、全く意に介するに足りません。一に発憤と努力如何であります。〝鈍〟は時に大成のための好資質とさえ言うことができます。鈍はごまかしません。おっとりと時をかけて漸習します。たとえば、書なんかでも、器用な書というもの…

道徳について、私がいつも気になることは、どうも道徳ということを、一般的には、何か我々の生活上の特殊な問題のように考える癖がついている。特殊なこと、不自然なこと、無理なこと、強制しなければできないことのような、そういう先入観念があります。こ…

我々人間には三つの原則があります。第一は自己保存ということ。身体の全機能・全器官が自己保存のために出来ておる。第二は種族の維持・発展ということ。腎臓にしても大脳にしても、あらゆる解剖学的全機能がそういうふうに出来ている。第三には無限の精神…