happykobe2005-10-22

死んだ親父のことを先考と言う。これは「考える」ということと同時に、「成す」という意味を持っている。
何故亡き父を先考というか。親父が亡くなってみると、或いは亡くなった親父の年になってみると、なる程父はよく考えておった、と親の心がよく解る。まだまだ俺は出来ておらぬ。さすがに親父はよく考えてやって来た、と親父の努力、親父のして来たことがはじめて理解出来る。人間は考えてしなければ成功しない。考えてはじめて成すことが出来る。考成という語のある所以です。
と同様に死んだお母さんの事を先妣(せんぴ)と言う。妣(ひ)という文字は配偶、つまり父のつれあいという意味と同時に、親しむという意味を持っておる。母というものは、亡くなった母の年になってみて、はじめて親父の本当のよき配偶であった、本当にやさしく親しめる人であった。ということが解る。所謂恋愛の相手とは違う。本当の愛、本当の女性、母・妻、というものは、亡くなった母の年になると解る。
だから子供はなるべく早いうちから親父の偉いところを見抜く努力がなければならぬ。少なくとも志がなければならぬ。又親父も伜にそれを悟らせるだけの内容を持たなければならぬ。

happykobe2005-10-21

兎に角先ず自らが自らに反る。志ある人々が先ず自らに反って、石に躓(つまず)けば、こんちくしょうと石を蹴飛ばさずに、自分が過ちであったことを省みる、恥ずる。そういう心の持ち方、考え方でゆく。そして自分が本当の自分に反った時にはどうなるか。
人は省みることによって、自ら反ることによって、はじめて心というものに触れることが出来る。他の動物も感覚や或る程度の意識は持っておるけれども、人間の様な複雑微妙な意識・精神、総称して心というものは持っていない。
人間の心というものは天地・自然が人間を通じて立てたものである。自然は、天地は、何億年何千万年何千年といろいろ植物動物をつくったわけでありますが、その人間が五十万年もかかってやっと人間らしくなって、その人間の中にこの高邁(こうまい)な精神的存在、即ち心というものを発達させ、文明、文化らしいものをつくって先ず五千年と考えられておる。従ってわれわれが心を持っておるということは、言い換えれば天地が心を持っておるということです。われわれの心は天地の心である。天地が発してわれわれの心になっている。

happykobe2005-10-20

こうして今日われわれが生きておること自体、これは偶然というか、不思議なのであります。毎日のように車にはねられて死んだり、怪我をしたり、その中には、将来随分偉くなる人もありましょうし、又現在立派な仕事をしておる人もたくさんある。そういうことを考えてみると、人間の成功に必然とか当然とかいってほこれるものは何一つだってありはしない。
自分があさはかであるから、わしは偉いとか、こういうことをやったとか、なんとかかんとかとみな好い気になっておるけれども、開き直って、お前本当にそう考えるか、とたずねられて、俺が偉いから当然こうなったのだ、と答えられるのは余程の馬鹿か狂人です。良心の一片だにあれば、なかなかそういうことは言えたものではない。
それを考えると、他人が偉くなったからといって羨(うらや)むこともないし、自分が恵まれぬからといって悔(くや)むこともなければ、怒ることもない、世を遁(のが)れて悶(もだ)ゆるなし、というのが本当であります。そういうことを考えてくると、はじめて真実とは何ぞやという問題に触れる。そこから人間・人生というものが分かってくるわけであります。

happykobe2005-10-19

医療が応病与薬であるように、教育・学問というものもみなその人その人に応じて具体的に、個性的に行われねばならない。決して抽象的・一般的に行われるべきものではない。
知識などというものは普遍妥当的ということがあり得るわけでありますから、実践的・行動的な学問というものは本当に人と人、魂と魂との接触でなければならない。それが抽象化し、普遍化するほど力がなくなる。医療も同じこと。本当の薬はその人・その時・何処で、誰が飲んでも効くというような薬は、それだけ効かぬものと思って宜しい。
教育の本質もここにあるのであります。人格と人格・箇と箇との接触によって始めて生きた反応効果を生ずるのです。

happykobe2005-10-18

アレキシス・カレルは、偉大な医学者であって、哲学者・人類の教師とも言うべき人でありますが、こういうことを言っております。
われわれの真の健康・体力・生命力というものは、単なる体格だとか、身長だとかいうものとはまるで違う。十分に考慮せられた栄養を摂取し、十分なる睡眠をとり、規則正しい生活をして、そうして予定に従って訓練を受ける、というような近代スポーツマン的な体格や、或は科学的に育てられた、均斉のとれた肉体などというものは、これは決して当てになるものではない。真の体力・健康というものはもっと矛盾に富んだ、もっと苛烈な、自然の暑さ・寒さ・飢餓、その他いろいろの不自由やら迫害と闘って、自然に鍛え上げるものでなくてはならない。
そういう意味から言うならば、文明の知識と技術の下につくり上げられた体力・生命力というものは弱いものである。文明はだんだん人間を弱くする、とまあ、こういうことを痛論しておるのであります。

happykobe2005-10-17

その物の存在にどういう効用があり、意味があるか、ということをつきとめるのが、これを物質で言えば、自然科学であり、人間で言えば、哲学・道徳学、広い意味の人間学というものであります。自然の物質にして、已に量るべからざる思いがけない意義・効用がありとすれば、万物の霊長たる人間に於ては尚更のこと、どんな愚かな人でも、自然の物質以上の意義・能力があるのであります。
なる程自然科学の発達は、言うまでもなく実に偉大であります。それに較べて、そういう意味での哲学や人間学というものは恐ろしく後れております。しかし古来の偉人や哲人を研究すると、人間もここまで至れるものか、とつくづく感じるのであります。偉人や哲人を待つまでもありません。どんな人でも、必ずこれは絶対のもの、何億何十億居(お)ったって、同じ顔をしたものは一人もいない。すべてが個性的存在・独自の存在であります。だから絶対に他にない、独自の意義・機能・使命というものがある。これだけは確実であって、ただそれを自覚し、活用することが難しいだけであります。
その点は自然の物質も同じことで、本当にどういう素質や能力があるか、自然科学が次第にそれを解明して来てはおりますけれども、まだまだ無限の前途があるのであります。未来の科学はこの世界をどう変えてゆくか、誠に量るべからざるものがある。それを考えるだけでも楽しいのであります。況(いわん)やそれよりももっと人間の開発が出来るならば、どんな立派な社会が出来るか、益々これは楽しみであります。

happykobe2005-10-16

人間何かになりたがるということは、それ自体意義のあることでありますが、然しそれは決して第一義ではありません。成(な)る可(べ)く潜在的生命を全うする。言い換えれば、無限定でありたいというのが生命本然の姿であります。その意味ですでに成長する、大人になるということそれ自体警戒を要することではあります。
子供の時には、宗教的素質も哲学的要求も芸術的本能も、あらゆる能力が渾然として含蓄されておるのでありますが、それが大人になるにつれて一部分の成長のために他は皆吸収されて無になってしまう。甚だしい自己限定をしてしまうわけであります。だから就職するということは芽出度い事には違いありませんが、又反面から言えば区(く)々たる(通りいっぺんの)一世渡り人になる、悲しむべきことでもあるわけであります。その意味で浪人生活は無限定であって、お粥くらいはすすれるということに満足しておればとらわれることなく自由です。こういう気持を以て職業人になって貰いたいものであります。