happykobe2005-11-06

人間の脳というものは、いくら使ってもくたびれないばかりでなく、難しいことに使えば使うほど機能が優れてくる。つまらないことに使っておると退化する。だから子供はいくら早くてもよいから、難しいことを遠慮なく教えるが宜しい。そんなことは子供の頭には過重な負担である、などと言うのは脳医学を知らなかった時の間違いであります。歴史上の偉大な人物ではなくて、たとえ平凡な人物でも、その伝記を調べてみると、教育さえすればもう五、六歳頃からびっくりするようなことをやっている。
尚、有難いことにこの脳は、いくら年をとっても決して衰えない。年をとって頭が呆けた、などというのは嘘だそうであります。医学者・大脳生理学者が証明しておるから間違いない。
年をとって呆けるように思うのは、年をとって他の身体のいろいろの器官が悪くなるために、次第に頭にいっておる血液の、酸素だとか、その他の必要な化学的成分の補給がきかなくなって、脳が麻痺(まひ)してくるわけで、従って身体を健康にしておきさえすれば、八十になろうが、百になろうが、断じて脳力は衰えるものではない。

happykobe2005-11-05

我々の生活は他の動物とは違う。人間であればあるほど、教養があればあるほど、単なる運命ではなくなって、命、絶対的なものになる。そして絶対的なものになるほど価値があるわけです。だから一切のことは運命である、と言っても少しも間違いではない。
然し運命とは何ぞや、ということを又少し追求してきますと、結局運命は立命でなければならない。これに反するものは宿命であります。
立命は自主的・自立的であるが、宿命は機械的他律的である。
人間は造化・神より命を享(う)けて、それこそ絶対作用で心というものを与えられ、理性・理知・情操というような尊い働きを開発されておる運命的な存在であるが、その中に在って運命を創ってゆくことができる、立命することができる。動物ほど宿命的であります。これが倫理学・道徳学・宗教学等一切の人間の精神的学問の本義であります。

happykobe2005-11-04

万物の霊長たる人間には、いかなる霊妙な能力があるか測り知れないのであります。修養のしかたによっては、人間はいかなる能力があるかわからぬほど貴い。研究すればするほど、人間の美質は発見せられ能力が発揮せられるのである。学校の成績が三十点でも四十点でも、それで己(おれ)は駄目だと考えてはいけない。大いに有為有能の人材となる大理想を持ち大努力をせねばならぬ。
大努力をなすには、当然自ら苦しまねばならぬ。苦しんで開拓したものでなければ本物ではない。人並みの努力をしたのでは秀れた者にはなれない。秀れた者となるためには、人に数倍の努力と苦労をしなければならない。人の寝るところは半分にし、人の食うところは半分くらいにしても、努力するところは人の十倍も二十倍もやるだけの元気がなければなれぬ。二十歳前後や三十歳前後は、いくら力(つと)めても疲労などするものではない。心身ともに旺盛な時である。まかり間違って病気になったり死んだりすれば、その時は天命と諦(あきら)めるのである。

happykobe2005-11-03

「勢交」・・その時世に勢力のある人間との交際。こういうやつは、勢力が移り変わるとどんどん離れていってしまう。
「賄交」・・いろいろ賄賂(わいろ)を贈ったり、寄付したり、何かそういう関係で仲良しになる、交際する。今日もまたこの賄交に目に余るものがある。
「談交」・・言論の交わり、マスコミに騒がれているタレントなどとの交際。今日の思想家だとか評論家だとか、あるいは外郭団体に属しておるもっぱら言論・文章のようなものをもって、時世に私を立てる、そういう仲間との交際は邪交であるという。今日の文壇、評論家、ジャーナリズム、マスコミで、大いに流行(はや)っているのだが、あいつと付き合ったらいいだろう、というような交わりは談交であります。
「量交」・・その時世の勢力の度合いなどを量(はか)って交際する。始終あいつの株が上がったとか、この頃は株が下がったとか、先物買いならあいつだとか、よくやっておる。
「窮交」・・自分の困窮した時に助けてくれるような人との交際を求めること。これは一番情けない交際である。窮して、どこかに助けてくれるやつはないかと、あの人のところへ行けば少し何とかしてくれるかもしれんと、しょっちゅう自分の窮する話で頼ってくるやつ。こういうのに限って、少し楽になると、きょとんとして、一向に寄りつきもせん。
これが邪交の五つ、勢交、賄交、談交、量交、窮交であります。

happykobe2005-11-02

人間が腹を立てる、ことにこせこせした自分の欲望、自分の小さな感情から忿(いか)ると非常に肝臓、胆嚢(たんのう)というような器官に変調を生じ、血液に一種の毒素を生ずるそうである。喜ぶということはその意味において、反対に毒素を消滅してしまう。だから喜ぶということは、人間をして一番不老長生ならしむる所以(ゆえん)である。
そういう意味において、農家は一番恵まれていると思う。こせこせした人間を相手にしないから、どうしても歓喜を生じることが多い。だから神仙の法を得ているので、不老長生できる種類に属する。ところが大勢の人ごみの中に入っておると、どうしてもそこに怒、呪い、不快が生ずるから早く老いるはずである。ところが必ずしもそうは行かぬ。小さな田舎に住んでおっても隣の奴がどう言ったとか、こう言ったとか、家内や隣里で、せっかくの神仙を堕落させる。諸君はすべからく田仙(でんせん)、野仏(のぼとけ)たるべし。

happykobe2005-11-01

人間というものは不精なものでありまして、早起きして、たまにはどこか回り道して歩いてみるのもいいんだが、そうすると十分ばかり損をするとか、何とかけちなことを考えて、結局は決まりきったコースで行ってしまうし、読書にしたって、自分は銀行マンであるから、別に政治だの哲学だの、そんなものに関係がない。したがってそういう余所(よそ)の世界の人間とか書物に別段付き合う必要もない。銀行マンだから銀行の仕事に関するもの、経済の書物とか景気の観測、そういうものぐらいを読むなら読んで、経済人と付き合って、それで十分だなどという生活をしておる。まことに味もそっけもない。モノの考え方が型にはまって、融通のきかん、応用力のない、魅力のない木偶坊のような人間になってしまうんです。
だからこそ、職業人になればなるほど、できるだけ余裕というものをつくって、別の世界、別の思想、別の学問といったものに触れる心掛けが必要です。そうしないと、人間が生きてきません。これはむしろ養生法、日用心法のうちでも大事な点です。

happykobe2005-10-31

恩を施(ほどこ)すということは非常によいことである。しかし報(むく)いを求めることはいけない。施した恩に対して報いを求めると、その恩が仇(あだ)になる。自分が善をなす、それを人に知られることを求めるというのは、それはすでに不善な気持ちであり、せっかくの善を汚すものである。それは何か一つの虚栄心であり、作為であり、欲望である。そうなると、他人はすぐにそれを看破(かんぱ)する。そしてかえって反対に謗(そし)りを得るかも知れん。いわゆる恩が仇となり、善が謗りになるから、恩というものは必ず報いを求めない。善をなすということ、それに甘んずる、それでいいのである。人に知られようと思って善をしてはいかん。